大沼悌一名誉院長 公益社団法人日本てんかん協会より「木村太郎記念賞」を受賞しました(2015.10.3)

大沼悌一名誉院長 「木村太郎記念賞」を受賞

この日本てんかん協会(別名:波の会)は、1973(昭48)年に二つの病院の待合室でできた「小児てんかんの子どもをもつ親の会」と「てんかんの患者を守る会」が、1976(昭51)年10月に統合し、国際障害者年の1981(昭56)年に厚生大臣(当時)から許可され、社団法人になりました。その後、2013(平成25)年4月に内閣総理大臣から認定を受けて、公益社団法人になりました。

 本協会は、てんかんに対する社会的理解の促進、てんかんに悩む人たちの社会援護活動、てんかん施策の充実をめざした調査研究や政策提言など、全国的な運動を展開しています(以上「てんかん協会の沿革、目的からから抜粋)。

私が今回この賞をいただき大変光栄に思っております。そしてついでながら木村太郎さんとのお付き合いについて一言ご説明させていただきたいと思います。

てんかん協会の設立に尽力された「てんかん患者を守る会」の木村太郎さんは国立武蔵療養所(現・国立精神・神経医療研究センター病院)てんかん病棟家族会の初代会長でした。彼自身はてんかん患者であり、長年この病院で治療を続けてきました。彼はてんかん患者がおかれていた厳しい偏見と社会的不利な状況を改善すべく、患者家族によるてんかん協会の設立に努力しました。当時同病院に勤務していた、和田豊治先生(静岡てんかん・神経医療センター初代院長)、清野昌一先生(同2代目院長)と一緒に運動し、ついに日本てんかん協会を設立し、日本で最初のてんかん専門病院(現・静岡てんかん・神経医療センター)を立ち上げに尽力しました。

彼の最初の主治医は和田豊治先生で次が清野昌一先生、そして3人目が私でした。木村太郎さんは、生前自分はなくなったら脳をてんかん研究のために寄付しますという遺言を残しました。昭和56年3月18日死亡、遺体は西埼玉中央病院にて解剖、脳は国立精神医療研究センター病理室に持ち運び、詳細にわたって調べられました。その結果、左内側、側頭葉(海馬・扁桃核)の著しい萎縮が見つかりました。彼の主治医として亡くなるまでお付き合いさせていただき、最後に私が彼の名前がついた賞を受賞したことに大変意義深く思っています。  

大沼 悌一