急に脳が損傷されると記憶障害が起こりうる。脳外傷、脳炎、脳梗塞、脳出血、脳腫瘍など背景にある脳の障害はさまざまであるが、その後遺症として記憶障害が残り、社会生活に重大な影響を残すことが多い。てんかん発作に関しても、けいれん性の大きな発作が短時間に何回も繰り返して起こると後遺症として脳障害、記憶障害が起こりうる。
通常、脳が急に侵されると意識障害が起こり、ひどいときはこん睡状態に陥る。その期間は脳障害の程度によって異なる。脳震盪などの軽い場合は、意識障害は数分ですぐに回復するが、重篤な場合は数ヶ月に及ぶ。ひどいときは年余に及ぶことがある。意識が無いのでこの間の記憶はない。意識が回復し、ようやく自分が病院にいることに気がついたなどということはよくある。その後仮にほとんど完全に回復したように見えても、後遺症として記憶障害が残っている場合が多い。
記憶障害で多いのは、新しい事柄を覚えられない場合で、これを前方性記憶障害と呼ぶ。つまり昨日やったこと、昨日友人が来たこと、今やったこと、今朝朝食をとったこと、つい先ほど話したことなどすべて忘れてしまっている状態である。記憶の中枢が傷害されているので、新しい体験が記憶中枢に刻み込まれないのである。しかし昔のことはよく覚えている場合が多い。
これに反して逆行性記憶障害というのがある。たとえば事故で脳挫傷を受け、数日間の意識障害があった。それから回復して一見正常に戻ったように見えるが、事故から遡ってその前の記憶がすっぽりと抜けていることの気づいたなどというのがそれである。脳の記憶中枢に刻み込まれた記憶の箱が壊れて過去の記憶を失ったといえる。
むかし以下のような症例に出会ったことがある。患者は30代後半の女性である。高校を卒業し数年間就職した後に結婚し、2人の子供をもうけた。ある日、夫の運転する自動車で実家に帰ろうと家族全員で出かけた。不幸はその晩遅い時間に起こった。列車の踏み切りを渡ろうとしていたとき、走ってきた貨物列車に接触したのである。車は大破、運転していた夫は即死、彼女と同乗していた子供二人も重傷を負った。
彼女はほぼ1カ月意識がなかったが、不幸中の幸いか大きな障害もなく、ほぼ完全に回復し、無事退院した。しかしその後まもなくけいれん発作が出るようになり、私が担当医となった。
私が大変驚いたのは、事故が起こる以前の数年間の記憶がすっぽりと抜けていることであった。事故の状況はもちろん、その朝に家族と一緒に車で出かけたこと、さらに数年前に結婚したこと、2人の子供を出産したこともなども全く覚えていないのである。亡くなった夫の写真を見せても「この人は誰?」とまるで他人事のようにいう。
これまで家庭一緒に経験したと思われるさまざまな過去の思い出、楽しいことも辛いこともたくさんあったろうと思うが、そのような感情は記憶喪失と同時に彼女の心から消えてしまった。したがって家族を失ったという実感が彼女にはないのである。彼女の両親や義父母の落ち込み、耐えがたい悲哀に比べ、平然としている彼女の態度は異様であった。
私はこの症例を通して「記憶は情動を伴い、記憶消失とともにそれに関連する情動も消失する」ということを学んだ。
「成人期てんかんの特色」大沼 悌一
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