大沼悌一院長 公益財団法人・てんかん治療研究財団より研究功労賞の金メダルを受賞(平成26.3)

平成25年度研究功労賞推薦書
受賞対象者 大沼 悌一 先生

 大沼悌一先生は、1960年に弘前大学医学部を卒業され、インターン研修後1961年弘前大学医学部神経精神医学教室に入局し、2年間の精神医学実地修練の後、1963年カナダマニトバ州ウイニペグ総合病院脳波検査室へ留学された。そこで脳波判読の基礎と修練を積み、1965年からは、米国デトロイトのウエーンステート大学神経内科へ勤務された。そこでは、救急部(いわゆるER)に所属し、米国人の医師と全く同様に多くの患者を担当し、当直業務をこなし、神経疾患の救急の場で、神経精神専門の臨床医としての研鑽を積まれた。

  1969年の帰国後は、弘前大学神経精神科助手として、てんかんの臨床研究を行いながら、後輩の指導をなさり、1974年からは同大学神経精神科講師に就任された。1977年からは特にてんかんの専門病棟の運営のために国立精神・神経センター武蔵病院医長として招聘され、1988年からは、同部長として、てんかんの電気生理学の研究とてんかんの精神症状の治療に没頭された。この間Benign Adult Familial Myoclonic Epilepsy(BAFME)と進行性ミオクローヌスてんかん(PME)の診断と治療を確立された。

   また、厚生省委託研究費てんかん研究班を組織され、さらに難治てんかんの分類として実生活に密着した「てんかんの八木・大沼分類」を提唱し、てんかんの難治度を平易に判定し、リハビリに生かす方策を提案された。

   並行して、1981年からは日本てんかん学会評議員に就任され、1985年からは同幹事として学会のIT化に貢献され、当時まだ他の学会では行われていなかった会員名簿のパソコン管理を開始された。1989年からは理事に就任し、資格審査員会・「てんかん研究」編集委員会・JUHN&MARY WADA奨励賞選考委員会・認定医(臨床専門医)委員会の委員を歴任し、特に歴史編纂委員会では委員長を務められた。

   1998年国立病院機構さいがた病院院長をもって退官された後は、ただちにてんかんの専門クリニック「むさしの国分寺クリニック」を開院された。思春期から成人のてんかん専門クリニックとして、現在日本で最も規模の大きな、また診療レベルの高い施設となっており、新規抗てんかん薬の治験や京都大学とのBAFMEの共同研究もおこなわれている。

   また、関東地区のてんかん診療レベルを高めるため、埼玉赤十字病院と東京都立多摩総合医療センターの医師にてんかん学と脳波学の講義を行っておられる。これらを機に、大沼悌一先生の「来る人拒まず去る人追わず」の精神に引かれ、月1回の「むさしの国分寺クリニックカンファレンス」には、国立精神・神経医療研究センター病院、東京都立多摩総合医療センター、東京医科歯科大学などの精神科・神経内科・脳神経外科医師を中心に多くの参加者があり、さながら「大沼てんかん学教室」の様相を呈した活況が続いている。

  2011年は2名の日本てんかん学会の認めるてんかん専門医が誕生し、2012年も4名が受験し結果発表を待っている。精神神経科学振興財団の「てんかん志向若手精神科・神経内科医師人材育成事業」にも協力をされている。

  日本てんかん学会名誉会員でありながら、現在も大沼悌一先生の旺盛な医療・社会活動は変わらない。英国Simon Shorvon教授の依頼で、英文の教科書にBAFMEとDRPLAを執筆なさり、日本てんかん協会からのさまざまな相談を引き受けるなど、てんかんに関する医学・社会貢献は現役のまま継続されている。また、退官後ヴァイオリンを始められ、クリニックのスタッフや友人と楽団を作り演奏会を開き、またバドミントンという激しいスポーツにも精を出して遂に全日本シニアバドミントン選手権大会に出場されるなど、きわめて多方面に活動しておられる。

   以上から、まさしく生涯をてんかんにささげる姿勢と人生の達人としての生き方は、年齢を超えて多くのてんかん関連医療者のロールモデルであり、若手てんかん医のメンターとなっている。以上から、てんかん治療研究振興財団の研究功労賞対象者にふさわしいと判断し、ここに推薦する。

国立精神・神経医療研究センター病院
  精神科医長  渡辺雅子